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コンセプトは必要なのか?

2015/9/26

一部を書き直しました(2015/12/19)。

200年くらい昔、Ledoux(ルドゥ)という建築家が、"architecture parlante"(「語る(おしゃべりする)建築※」)ということを言いました。

※「語りかける建築」という訳を見ることもありますが、行き過ぎの訳だと私は思います。

Architecture(建築物)は昔も今も黙りつづけていますが、近代以降、architect(建築家)がよくおしゃべりするようになりました。その理由は後で書くつもりですが、この建築家のおしゃべりが、コンセプトだと思ってもよいでしょう。

「住宅は住むための機械」であるとか、「より少ないことはよりよいことである」とか、分かるような分からないような言葉がたくさん出てきたのも近代以降です。これらは、すべて、architect(建築家)というのおしゃべりであって、architecture(建築物)というのおしゃべりではありません。

ここで、「物がしゃべるはずがないだろう」と心の中で思った人は、その浅薄さを反省してください。反省できたら、次に進んでください。「反省」という言葉にむかついた人は、ここでさよなら。

べつにarchitect(建築家)がおしゃべりしてもかまいませんが、必ずしゃべらなければいけないのでしょうか? (卒業設計などでは必ずコンセプトが要求されるので、必ずしゃべらなければならない状態に置かれるわけです。でも、なぜ? )

冒頭に記した、Ledoux(ルドゥ)の言葉をあらためて考えてみましょう。

"architecture parlante" (「語る(おしゃべりする)建築物」)とは、「architecture(建築物)が、その建築物を使う人に向かってしゃべる」ということです。では、建築物という物が、人に向かって何をしゃべるというのでしょう?

物が人に向かっておしゃべりする、、、、、アフォーダンスですね。

今の言葉で言えば、Ledoux(ルドゥ)は「建築家はアフォーダンスをコントロールする必要がある」と言いたかったと考えればよいでしょう。Ledoux(ルドゥ)は新古典主義の建築家なので、時代的にみれば、彼の言葉は「近現代的な意味合いでの空間」を対象としたのではなく、ほとんど100%、「形態が観察者に与える印象」について話している訳です。

Ledoux(ルドゥ)の時代はまだ RC造 はなかったので、切り出した石のかたまりをどんな形に削って全体像を造るかということ、煉瓦をどんなふうに積み上げて全体像を造るかということなどが大きな課題で、そのような意味では新古典主義の時代から2000年以上昔の古代ギリシアで行われていたこととほとんど変わりません。新古典主義は、短絡的に言えば古代ギリシア建築を模範としていたので、近代以降と比べると形作りの悩みはほとんどなかったと言ってもよいと思います。そのような中で、Ledoux(ルドゥ)は、建物そのものの形より、配置計画や平面計画をがんばって、「ショーの製塩所」という素晴らしい建築群を作ったように私は思います。

近代建築は、主に鉄やコンクリートによる形態づくりの自由さの増加によって、それ以前の時代と異なって、標準的な形を出発点(あるいは終着点)として建築を考えることができなくなりました。もっとも、たとえばRCでコリント式柱頭を作りたいので型枠を作れというのは拷問のようなもので、RCの作り方が理由で、好みや希望などから離れるとしても単純なディテールを採用せざるを得なかったのかもしれません。そしてその単純なディテールの組み合わせが近代建築の特徴となり、そこに美意識を見出した結果出てきたのが"Less is more."や"Une maison est une machine à habiter."という発言で、言えて妙だと思いますが、もし近代建築において、つい先日発生したオリンピックのエンブレムのような騒ぎを民衆が起こして、建物に対して「あれはパクリだからだめ、これもパクリだからだめ」と言い始めたら、みんな住む家も働くオフィスもなくなってしまいます。

それじゃ、どうっやって建物を差別化すればいいの?

そうです。ここで「コンセプト」を持ち出して、よく似た建物同士であっても、コンセプトが異なるから違う建物であると主張できるわけです。

建物がおしゃべりできなくなったので、かわりに人(設計者)がおしゃべりするようになった、そのおしゃべりが、コンセプトと呼ばれるようになった、、、と言いっても差し支えないと思います。(あちこちからのお叱りを受けそうですが。)

もう半世紀近く前のことですが、Gibsonがアフォーダンスを提唱して、物と人の関わり方への新しい見方が生まれたわけです。そして、Normanが上手に誤解したように、アフォーダンスはデザインの上で重要な検討事項となりました。アフォーダンスは、「ある程度は予測ができるけれど、建物ができてみないと分からない。さらには、人それぞれに見出すアフォーダンスが異なるので、建物のアフォーダンスが確定することはありえない」という、設計者側から見れば厄介なものです。でも、建物の存在理由を創り出す重要な要因なので、真っ正面から向き合わないと、よい建物はできません。

建物のアフォーダンスとは建物が人に向かってするおしゃべりであり、それを建築家が事前に代弁するのがコンセプト。アフォーダンスという、建物ができて、あらゆる人が使ってみないと分からないことに対して、事前に何か語ることができたとしても、それは建物のごく一部についてでしかないです。これは大切な視点です。

コンセプトが、建物のごく一部しか示せないのであれば、なぜ、最初にコンセプトがいるのか?

あえて極端な答えを導いて、「そんなものいらない!」という姿勢で設計したら、どのような問題が生じるでしょう? それとも問題など生じないでしょうか?

難しいですね、、、、では、こう考えましょう。

「建物のアフォーダンスが最終的なコンセプトであるとすれば、設計者がユーザーの立場に身を置いて考えることによって、少しでもコンセプトを補完し、整理することが可能になる。」

どの本だったか、直ちに思い出せないのですが、認知科学選書のどれかに「小人の派遣」という表現がありました。これは大切なことです。自分が造っている図面でもCGでもなんでもよいので、自らが小人になって入り込んでみてください。平面図は神の視点ですから、そればかり見ていると人の存在を忘れがちです。人の視点を得るためには、小人になる必要があります(近年は、CADでウォークスルーできるので、想像力が乏しい人でもかなり行けるようになりました。良いことです。3Dゲームに慣れた世代のウォークスルーの上手さには感心しますよ。)

さて、この記事は将来的に書き直すつもりなので、ここで性急な結論を出しておきます。

「設計者としてより、むしろユーザーとして、その建物について考えていれば、コンセプトづくりに行き詰まることはなくなる。」

「行き詰まった感じがしたら、それはコンセプトが問題なのではなく、あなたの造形能力、素材や色の選択眼に欠陥がある。したがって、さらに形態づくりの理論を学んだり、素材や色が与える心理的効果について学ぶべきである。そうしたら、半自動的にコンセプトはできあがっていく。」


【付記(2015/12/19)】

新国立競技場の新案が発表されました。設計の良し悪しはともあれ、「(設計者が)コンセプトと呼ぶもの」の虚しさを誰もが理解できる事例だと思います。設計者はそれを分かった上でやっているでしょう。2人のうちの1人は、デビュー時からそればかりやってきたと思える人であるし、、、。だから、愚かなのは「(設計者が)コンセプトと呼ぶもの」に思考を操作されてしまう聴衆なのでしょう。コンセプトは、「言い訳」に聞こえるレベルではだめで、せめて「なかなか上手い理論武装だなぁ」と思えるレベルに高めることは、卒業設計では重要なことだと思います。