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EPCOT NET No.38  【第6回(最終回)】  『想像力は行為する肉体の延長にある』 2003年8月


EPCOT NET は、生活産業研究所(株)のメールマガジンです。これは、No.38に掲載。

今回が最終回。話があちこちに行ってしまったが、コンピュータやCADは建築における脱近代の有効な道具であるという認識が底にある。ところが、コンピュータやCADが、本来持っているポテンシャルを活かせるまでの環境も意識も整っておらず、だから、我々はまだまだ近代街道を突っ走っている。

コラムの中で近代の弊害を指摘し、これからはアクティビティから発想して建築や都市をつくって行こうと書いた。

近代がこれまでやってきたことを否定してはいけないし、そもそも、近代が間違っていたわけでもない。ちょっとした視点の変更をした方が良さそうな時期に差しかかっている、ということだ。想像力さえあれば、そちらへ行ける。しかし道具の使い方を誤ったら道に迷う。ダイナマイトを引き合いに出すまでもなく道具には誤った使い方があり、誤った使い方が社会で公認されることすらある。もっとも危惧するのはこの点である。

道具の使い方を間違えないためには教育が重要であること、しかるに教育現場は遅れていることについても書いた。

それではコンピュータやCAD自体はどうであろうか。

実は私はコンピュータには呆れている。なぜか。理由はたくさんある。たとえば平気で人を待たせる。コンピュータそれ自体は進歩した。マシンスペックも、ソフトの機能も私が使い始めた頃に思い描いていた可能性をはるかに超えている。しかし、コンピュータを含め、人間が作り出した道具はすべて人間の僕であるからして決して人を待たせてはいけない。待つ行為を否定しているのではない。待つ行為がネガティブであったりイナクティブであったり、非生産的であったりしてはいけないと思うのだ。

  1. レコードの聴きたい曲の直前の溝にそぉっと針を下ろす行為

  2. CDプレーヤーのリモコンで聴きたい曲の番号を押す行為

得られる結果はどちらも「聴きたい曲を聴く」であり、結果本位で見れば1)も2)も同じだ。理念の達成をはかることは、ある一意の結果を求める態度でもありだから近代化は2)の様態を是とし、目指したと思う。

1)は聴きたい曲を目指して、回るレコードの溝めがけて、レコード盤も針も傷つけないように、全身全霊を傾けて針を下ろす。そのとき肉体とレコードとプレーヤーと、その先にある曲は一体になる。たった数秒間だが、曲の始まりに向けて気分は高揚していく。とてもアクティブでポジティブでそしてアグレッシブでさえある時間だ。

2)は曲番号をリモコンに打ち込むだけで、何も自分とはつながらず、予定調和的に聴きたい曲が始まるだけ。デジタル機器の操作(入力)から結果(出力)が得られるまでの微少な時間、筋肉も活動しなければ、脳もたぶんボケぇっとしている。コンマ数行から数秒単位の長さにすぎないが、実に無駄な時間だ。高揚感がないのはもとより、あまりに短すぎて窓の外に目をやるほどの余裕も、何か新しいアイディアがわき出すほどの余裕もない。完全な死に時間。このように人を無駄に待たせるという一点を見ただけでも、コンピュータという道具は全く進歩していないと言える。

そんな意味で、コンピュータはトコトン速くならなければならないがもうひとつの問題として、マウスとキーボードとディスプレイを基本とするマンマシンインタフェースが現状でよいのか、という疑問がある。

これらの装置からは、肉体の悦びを得られない。T定規で長い線をすぅっと引いたときの悦びとは全く別の世界だ。CADはどうか。当初は、Computer Aided DrawingとしてのCADとComputer AidedDesignとしてのCADはない交ぜであったが、だんだんとそれぞれの相違が明確になってきているように思える。どっちつかずであったものも、マシンパフォーマンスの向上によってDesignを強く意識したものに変化しつつあるようで、歓迎している。

このような状況下で忘れてはならないのはコンピュータは計算が得意なだけであって計算結果を表示するだけという制限があることだ。ここに落とし穴がある。

ハードとソフトの高速化や多機能化によって、できることを何でも実装する状態になってきている。その弊害も多く、顕著な例としては、過度のビジュアライゼーションがある。必要な情報を的確に伝えるために必要な範囲での視覚化は重要だ。しかし「できるから」という理由で、何でもかんでも視覚化しようとしている方向に進んでいる。

こういうことを言うと「価値観が多様化しているのであらゆる人があらゆる情報を受けられるようにしているのだ」と反論されるだろう。

個人個人の価値観は多様化しても、モノゴトの価値は多様化しない。「できるからやる」ではなく「できるけれどやらない」という姿勢があってこそ円滑なコミュニケーション(=意思疎通、情報伝達)が図られるのではないだろうか。

情報化は「価値観の多様化」という耳障りの良い標語の下に「何でもあり」を是とし、デザインにも混乱をもたらし、近代の理念のひとつ万人のための公平さは「何でもあり」の実現という堕落した格好で達成されてしまった。そして、価値観の多様化と引き替えに、人は想像力と批判精神を失ってしまった。

ここで強引にCADやソフトに話を戻そう。「何でもあり」が失わせてしまった想像力と批判精神を取り戻せるような、つまり、操作しながら考える余地があり待ち時間を死に時間としないようなCADやソフト、そういう工夫--機能ではなく「工夫」--が求められると考えている。

理念というのは想像力の賜物だと思う。

すぐれた理念を生み出した近代は想像力に溢れていたはずだ。アフォーダンスもアクティビティから発想するデザインも想像力があって初めて成り立つ。哲学的な意味では、その想像力は行為する肉体の延長にある。かつてウィリアム・モリスは、作る者にとっても使う者にとっても喜びとなるようなものづくりを目指した。その動きが続かなかった理由は、道具という視点が欠けていたからではないかと思う。

生きる人間として重要なのは、結果ではなくプロセスであり、良い結果はプロセスを大切することでもたらされる----モリスの言葉の一側面はこのようにも言い換えられるだろう。ものをつくるプロセスには必ず道具が必要であり、私たちはその道具をうまく使うことによってモリスの失敗を避けられるだろう。