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EPCOT NET No.34 【第3回】 『アフォーダンスのこと』  2003年4月


EPCOT NET は、生活産業研究所(株)のメールマガジンです。これは、No.34に掲載。

メディアでは華やかな建築のハイエンドの世界が見られるが、現実として建築は行き詰まっている。打開のためには、方法論、デザイン・プロセスを意図的に転換していく姿勢が必要ではないかと思う。そのキーワードがアクティビティであったり、アフォーダンスであったりするわけだが、前回はアクティビティというキーワードからアフォーダンスに行き着いた。ここで、ちょっとアフォーダンスの説明をしておこう。

アフォーダンスとは、視覚心理科学者J.J.ギブソンが提唱した理論で、佐伯胖編『アクティブ・マインド』(東京大学出版会)を典拠に簡単に説明すると;

"ギブソンが問うたこと"は、"人や動物が動き回ることを通して、世界がどういうふうになっているかがわかり、自分がどこをどう歩いているかがわかり、どこへ行くのかがわかり、いろいろなものがどういうことに役立つかがわかり、「針に糸をどう通すとか、自動車をどう運転するか、など何かあることをするその方法をどのように知るか」という問題"である。

アフォーダンスとは、生体の活動を誘発し方向づける性質であり、人が何かを知覚することとは、生体がその活動の流れのなかで外界から自らのアフォーダンスを直接引き出すことであると捉える。アフォーダンスという考え方において重要なのは、

  • 知識は頭の中に想定しない。
  • 知識は環境自体の中に存在している。

の2点である。

たとえば、何か道具を使う場合、アフォーダンスを使わない説明ではこうなる。

ある人がある道具を見たとき、その人はその道具が何であるか、
あるいは何に使えるか知っているから、その道具を使う。

知識を頭の中に想定せず、知識が環境自体の中に存在すると捉えるアフォーダンスで説明するとこうなる。

ある人は、あることを行おうという要求をもっている。
あるモノが、その人が要求していることを行えるという情報を発している。
その人の目に、そのモノが、その要求をかなえるモノとして目に入る
(その人がそのモノが発する情報を発見する)。その人はそのモノを使って要求をかなえる。

たとえば、いまここに一本の鉛筆があるとする。

Aさんは、何かを書きたいと思っている。
Bさんは、背中の手が届かない場所がかゆい。

AさんもBさんも、あたりを見回して、この鉛筆に目を留めた。

Aさんは、その鉛筆を手に取り、文字を書いた。
Bさんは、その鉛筆を手に取り、背中を掻いた。

おそらく「鉛筆とは文字を書くためのモノである」ことは二人とも知っている。これは頭の中にある知識である。ところがBさんは「環境自体の中に存在する知識」を発見したからこそ、頭の中の知識とは違う使い方をして「背中を掻いた」のだ。Bさんが発見したのは「鉛筆」という機能ではなく「細長く適当な長さの棒」が発するアフォーダンスである。頭の中の知識にがんじがらめにされていたら鉛筆で背中を掻こうとは思いつかないはずだし、通常は「鉛筆とは背中を掻くためのモノだ」とは思っていないだろう。つまり、Bさんが、鉛筆で背中を掻いたのは、鉛筆が「背中を掻けるよ」というアフォーダンスを発していて、それをBさんが発見したと考える。これは一種の発想の転換で、デザイナーにとってとても重要な視点である。

何かをデザインするときは、かならず機能上の要求があり、要求された機能に対して形態を与えるというプロセスをとることは、自明であろう。「<なんにでも使えるモノ=あらゆる機能をもつモノ>をデザインせよ!」と要求されることはなく、たとえばコップとか住宅とか飛行機とか、絞り込まれた機能が要求され、その要求を満たすために形態を作り出す。デザインとは機能に形態を与える行為である。ところがこれは、ユーザによるアフォーダンス発見のプロセスとは根本的に異なるプロセスである。ユーザとデザイナーでは、出発点とゴールが下記のように異なると考えればよいだろう。





つまり、デザイナーがある機能を満たすものとして生み出した形態に対して、ユーザは全く違う機能を発見する可能性がある。デザイナーは、ひとつのアフォーダンスをもつものとしてつくったのかもしれないが、それはさまざまなアフォーダンスを持ちうるわけで、そのことに十分注意して、デザインプロセスにおいて正しい判断しておかなければならない。

前回、機能についての、Mitchellの記述を示した。ある入力があり、それがある関数(=function)を通ることにより、何らかの出力がある。すべては、y=f(x)で記述できる。そしてアフォーダンスの視点からは、モノがあれば必ず機能があることになる。

要するに、デザインする立場からは、形態は機能に従い、あたかも機能と形態は1対1に対応するように思えるかもしれないし、そういうデザインの進め方は確かに重要であるが、ユーザから見れば、形態と機能は1対1に対応するものではなく、その形態が発するアフォーダンスから何か必要な機能を見つけ出して使っているだけである。

モノを介して起きる事故の多くも、デザイナーの意図とユーザが発見するアフォーダンスがずれていたことに起因する場合が多いのではないだろうか。六本木ヒルズでの悲しく辛い事件も、アフォーダンスの観点から見れば、過ったデザインになっていたと言えるのではないか。ドアの機械的スペックからの安全判断、柵を設ければ安全性が増すという常套句的判断、確かに、それぞれが期待した機能は果たしていたのかも知れない。

しかし、亡くなった少年は、エントランス廻りの環境に、それらの機能ではない機能を見いだしたから(アフォーダンスを見いだしたから)、ドアに駆け込んでしまったのではないか。頻発する遊具の事故も同様だ。メーカーから出てくるコメントは、機械的なスペック、デザインする側からの機能だけから、安全であると主張する。デザインされたモノをユーザがどう見るか、どう使うかという視点はない。穴があったら指を突っ込むのが子供である。子供はとても多くのアフォーダンスを世界から発見する力を持っている。

さて、前回のコラムについて、友人のB氏からこんなコメントをいただいた。

 ピーマンな私には分らないことがあります。
 なぜ、創造するために理論が必要なのか?
 創造できない人の為に理論が必要なのか?
 想像したものを現実世界に存在させる(これが創造?)ために
 関数としての理論が必要なのかなぁ?
 やっぱりピーマンな私にはヨーわからんです。

数学科出身B氏はドライな合理主義者、ピーマンというのは大謙遜である。答えになっていないと叱られることは覚悟の上で、関数(=function)として理論を「記述」することが必要なのではない。機能(function)を入力があれば出力があると柔軟に捉える姿勢が重要だと指摘したかったのである。この柔軟さがまさにアフォーダンス理論の醍醐味だと思う。

もちろん、関数で記述できることもたくさんあるだろう。

たとえば、アフォーダンスではたとえば次のような面白い実験結果がある。

  • スリットを通り抜けるときの肩の回転角度は、その人の肩幅に比例する。

柵など水平の障害物があるとき、人は、自分の股下寸法の85%の高さで、またげるかまたげないかを判断している。

人間は、驚くほど自分の体のサイズを知っていて、モノとの関係を捉え、行為するということであるが、これらは関数として記述でき、デザイン検討に使えるだろう。

「創造できない人」というのはおそらく一人も存在しないと思うが、反面、これだけ情報が増え、あらゆる分野が専門化してきた今、レオナルド・ダ・ビンチのように<何でもできる人>はもはや出現できない。一人の知恵などたかが知れている。そこで、関数化できることについてはマニュアルをつくっておいて、それに従ってデザインすれば、住空間の偏差値平均はあがるだろう。
デザイナー個人のオリジナリティを発現させることより、平均値をあげること、ボトムアップすることが、都市や建築の惨状を乗り越えるために必要だ。これは一種のユーザ教育でもある。ユーザに建築や都市への理解を深めてもらうことと、住空間の質を上げることはイコールだ。

アフォーダンスを考えてデザインすることは、デザインしたモノがどのような使われ方をするかを想定したデザイン、ユーザのアクティビティ(行為)から発するデザインである。だから必ず人間が判断の指標となる。お金の気持ちではなく、人の気持ちになってデザインできる。

......言うは易く行うは難し。
しかし時代的幸運というべきか、救世主=CADが登場した。CADという道具は何をもたらしてくれるか? これを次回のテーマにしようと思う。