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EPCOT NET No.35  【第4回】 『CADは救世主となりうるか?』 2003年5月


EPCOT NET は、生活産業研究所(株)のメールマガジンです。これは、No.35に掲載。

(まずは私がまだ大学で教えていたときに、電子計算センターの機関誌に『CADは建築の将来を拓く--ただし、教育が正しければ!』と題して書いた文章をお読みください)。→この部分は他のページとダブります。

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CADを教えなければならないという思いと焦りはおそらくほとんどの建築系学科に共通しているだろう。

しかしCAD教育に関する議論は、技術的側面と理論的側面がないまぜのまま進み、いつしか技術的側面だけが強調され、否定的な結論に至ることが多いようだ。CADが教育プログラムにうまく入っていかない根底にはCADへの大きな誤解があるのではないかと、CADの中に救世主を見る私は、やや被害妄想的に感じている。

CADにかぎらず建築教育における演習系科目の大半は、技術と理論の同時習得を目的としている。

たとえば製図演習では、図面上の一本一本の線は何かしらの意味を担っていることを知るのが理論的な理解であり、その線を意味内容に応じて描き分けられるようになることが技術の習得である。やみくもにきれいな線を描けるだけとか、逆に線の意味が分かっていても描き分けられないのでは、製図を学んだとは言えない。実務に携わる人から「図面が描けない人はCADを使えない」という言葉をしばしば聞く。このセンテンスは技術と理論の不可分の関係を示す好例であり、「図面が描けない→CADを使えない」という技術上の因果関係で捉えるべきではない。

「図面が描けないこと=図面の理論的側面を知らないこと」であり、だからこそ、道具を鉛筆からCADに代えてみても手も足も出ないのである。

教育の現場では、ここにおいて「手書きが先かCADが先か」と、ニワトリと卵のような議論が起きる場合がある。

私はどちらでもかまわないと思う。卒業後に手で図面を描くチャンスが稀になった現在では、CADから始めても全く問題ないだろう−ただし、教育が正しければ!

またそれ以前の誤解として、よく「CADか手書きか」という二者択一論的な立脚点を見受けることがある。CADの登場は、設計プロセスで使う道具がひとつ増えたことに過ぎない。そして、スープを飲むのにナイフを使う人はいないように、あるいはスパゲッティを箸で食べてもいいように、目的と、達成されるべき結末が分かっていれば、TPOに応じた道具を間違いなく選べるのだ−ただし、教育が正しければ!

あるいはCADを使うことは楽をすることだという先入主もあるようだが、いかなる道具を使おうと産みの苦しみから逃れることはできない。しかし道具が内在する<速度>の差によって、苦しみから逃れるために必要な時間や次の苦しみの局面へと移行する時間は大きく変わるだろう−ただし、教育が正しければ!

さらにCADやコンピュータをバーチャルな世界と位置づけ、そこへの傾倒を危惧する声もあるが、バーチャルとリアルはどう見ても異なっており、それらをゴチャマゼにすることなどありえない−ただし、教育が正しければ!

偶然見たTV番組で「コンピュータ=バーチャルリアリティのように言われているが、人工物に囲まれたまち自体がすでにバーチャルリアリティであり脳化されたものである」というようなことを養老孟司氏が述べられていた。然り。ビデオゲーム世代が起こす社会問題も、社会や都市環境がバーチャルになっていることに起因するのであって、ちっぽけな機械に責任転嫁するのは可哀相だ。そして、設計図面とは3次元物体の2次元平面への写像という高度に抽象化された記号体系であり、極度にバーチャルなのである。だから読み間違いや解釈の相違といったコミュニケーションの障害がおきやすい。一方3次元CADは3次元物体や空間そのものを見せるから、図面よりも抽象度は低く(リアリティが高いのではない)、障害はおきにくい−ただし、教育が正しければ!

もしバーチャルな世界に<在る>ことに危険があるとすれば、それはその人の「想像力の欠如」に基づく。バーチャルとリアルを結びつける想像力や、違いを認知するための想像力である。CAD教育だけでこれを補うのは無理だが、少なくともCADがアイディアを可視化する圧倒的な速さは、想像力育成に有効に働くだろう。また、CADは想像力を媒介として円滑なコミュニケーションを促進してくれるものでもある−ただし、教育が正しければ!

私は、正しい!?建築教育とは何かと自問しながら、CADの授業を担当している。もちろん正しさとは時代や文化によって揺らぐものであるから、普遍的な正しさを求めようということではない。生活のあらゆる局面において「近代的な正しさ」を変容させるべき時期が来ていて、教育機関はその震源にならなければならないとの確固たる認識があるだけだ。私はまだ明快な方法論を手中にはしていないが、授業内容や成果についてはホームページなどや紀要への投稿をご覧いただきたい。

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これを書いてから5年が過ぎ、CADもコンピュータも技術的には飛躍的な進歩を遂げたが、状況はほとんど変わっていないようだ。

プロセスを評価するにあたって、目的と結果から判断するか、使われた道具や手段から判断するか、CADにかかわらずコンピュータは、その点で多くの人の目を曇らせる。これも変化が進まない理由だろう。

たいへん優れた人たちが、コンピュータの前で突如として幼稚化するシーンに居合わせたことが何度もある。上記を書いたころ、『CADが拓く建築デザインの未来』と題した公開講座を企画・開催していた。大上段に構えたタイトルだが、ことさらCADを強調し、その優位性を唱えなければならない時代でもあった。次の小文もこのころに書いたものだ。

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産業革命を思い出してみよう。科学技術が、社会を、文化を、生活を変えたではないか。いま僕たちの身の回りの科学技術で、未来を変えられるものがあるはずだ。認知科学者ドナルド・ノーマンがコンピュータのことを<人を賢くする道具>と言っている。そうコンピュータは未来を変えられるのだ。

しかし建築においてコンピュータは何かを変えてきたろうか。経済主義的な意味での省力化、効率化は進んだかもしれないが、それは産業革命時と同じく手作業を機械作業に置き換えたことにすぎない。CADがこのままでは、CADの使い方がこのままでは、産業革命時と同じく、機械作業の弊害しか現れず、未来は暗いものになってしまうかもしれない。

近代が僕たち建築に携わる者に遺してくれたものは何だろう。それは空間でしかない。様式の呪縛から逃れて、科学技術と新しい社会や生活を謳歌することによって生まれたのが、空間という考え方。空間をつくるためには空間を考えて判断しなければならない。3次元CADは空間を見せ、考えさえてくれる道具だから、近代の遺産を正しく受け継ごうとするとき、僕たちが使う道具は3次元CADしかありえない。

建築家は図面を語ってはいけない。空間を語らなければならない。

それはプロとプロの間でもプロと素人の間でも同じことだ。図面描き道具は捨てて、空間づくり道具を手にしなければならない。そして、空間を喋ることが必要なのだ。

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私は、近代主義の理念がもたらした害のひとつに、時間感覚の喪失があると考えているが、その状態を脱する方便としても時間を扱える道具が必要である。

先に答えを言えば、その道具こそCADなのであり、救世主となりうる力をもっていると思う......「思う」と弱気にならざるを得ないのは、CADが救世主となりうるかどうかはCADが新しい価値観を生み出せるかどうかで決まるからだ。

新しい価値観は、やがて文化へと醸成されていく。

つい先日、最新の住宅CADのデモを見た。技術は格段の進歩を遂げていることはよく分かった。反面、開発の方向性を見失っているのではないかという危惧を感じた。新しく搭載する機能が必要である根拠が示せていない気がした。そしてユーザは次々と投入される新機能を前に、CADの枠内で右往左往するのが精一杯のようでもある。発想も仕事もCADの中に閉ざすこと(CADで描けないから創らない、CADが描いてくれるから考えない、そんな状態)ほど怖いことはない。

新しい価値観を生み出すためには、CADも進歩しなければならないし、ユーザも変化しなければならない。だから、冒頭に掲載した小文のような懸念--ただし教育が正しければ!--がついて回るのである。教育が正しくなければCADは救世主にはなれないことだけは、自明である。