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EPCOT NET No.37  【第5回】 『ハードディスクの肥やし』 2003年7月


EPCOT NET は、生活産業研究所(株)のメールマガジンです。これは、No.37に掲載。

ときおり、考えていること、頭の中でもやもやしていることなどを書き散らしては、ハードディスクの肥やしにしている。今回はその中からいくつか。

<スピード>


「ル・コルビュジエの時代と今とはスピードが違う。」

1997年に開催された日本フィンランド都市セミナーの展覧会の準備中、コーディネータの建築家・岡部憲明さんと、ル・コルビュジエについて、雑談したときの岡部さんの言葉である。

そのしばらく前、私は学生達とル・コルビュジエ作品のおっかけ旅行をした。そのとき初めて、ル・コルビュジエの建築を実体験したのだったが、<人が過ごす時空間>としての素晴らしさに感嘆した。しかし、言葉にできない苛立ちのようなものを感じていた。岡部さんの言葉で、その苛立ちは消えた。建築史を専門としていたのに、ル・コルビュジエをピンポイントで見ていたことに気づき、恥じ入った。

当たり前のことだが、ル・コルビュジエの時代と現代は異なる時代であるから、新しくつくられる建築が同じであってよいはずがない。いくらル・コルビュジエの建築が優れていても、今、それを再現することには無理がある。無理がある、ではなく、無意味というべきだろう。

無意味である理由のひとつが「スピード」、ル・コルビュジエの時代と現代とで、大きく様相を変えた<生活感覚>であろう。スピードが与えてくれる恩恵は計り知れない。その変化にあえて抗う必要はないだろう。しかし、感覚は追従できても、肉体そのものは、スピードの増大に対応できていない。生活感覚と身体感覚のズレが生じている。

ハイスピード化に抗うかのように「スローライフ」という言葉をよく目にする。一瞬、復古主義か?!と疑うが、メディアで目にするものの多くは、上記のような変化やズレを認識した上でスローライフを提唱しているようで、共感を覚える。

建築デザインについて言えば、器だけではなく、ライフスタイルをデザインすることが、ズレ解消の第一歩だろう。

<歪み>


私が大学1年の時、図法の授業のティーチングアシスタントに、黒いボールペンでカレンダーの裏に、ものすごいパースを描く人がいた。その人=栗田さんは、絵の苦手な私には憧れの存在であった。

あるとき学食で食事中の栗田さんに恐る恐るパースの書き方を尋ねたら、あの優しい笑顔から、不可解な言葉が聞こえた。

「理論通りにやったら歪んで見えるので、それを修正する必要がある。」

なぜ理論通りにやったら歪むのか全く分からないまま、そして言葉の意味を深く考えもしないまま、絵の苦手な私は受験数学の弊害を背負ったまま、「パースなんて座標変換の計算にすぎない!」、「たんなる計算だから、計算が得意なコンピュータにやらせればよい!」と8ビットパソコンをローンで買ってパース作成のプログラム(今で言えば3次元CADか?)を作る方向に進んでしまった。

昨年、不思議な縁で20数年ぶりに栗田さんにお会いし、その話をしたところ、昔と変わらない優しい笑顔で謎解きをしてくださった。人間が見ているのは網膜という球面への投影、理論通りのパースは平面への投影であるからで、幾何学的には人間が見ている世界の方が歪んでいるのである。(実際はもっと深遠な内容だが、私が解題できるような単純なことではない。ここでは数学的な理論と、現実の認知には相違があることだけを強調したい。)

こういう歪みも計算でかなり再現できるとは思うが、人間にとっての自然な歪みの表現には至っていないようだ。

古代ギリシア建築の、基壇のむくり、隅柱の内転び、エンタシスなど、幾何学的にまっすぐにするのではなく、目で見たときにまっすぐ見えるようにするため、あえて形を歪ませる技法は、幾何学的な理論ではなく、観察主体である人間にとっての自然さを選んだ結果だろう。その点、アフォーダンスは人間という観察者の上に成り立つ、素晴らしい考え方だ。観察者主体の造形理論ができてほしいし、つくりたいと思う。

<イタコ>


そのころ栗田さんとやりとりしたメールから。まずは私が釈迦に説法;

architectの語源は、古代ギリシア語の、arxi+tekton=技術者の長です。そして、architectureはarchitectからの派生語ですから、人の存在(=architect)があって初めてモノ(=architecture)が存在できると捉えてもよいでしょう。つまりモノは人の存在の帰結である、ということです。

これは、一般的な道具で考えれば当たり前のことです。要らない道具は作りません。ある機能的要求があって初めてモノ(道具)をつくります。(大量消費型の社会においては要らないものもたくさんつくられ、多くの人がいらないものを手にするようにはなっていますが、モノをつくる基本は「必要だから作る」で、これは普遍でしょう。問題は機能が必要だから作るのか、お金が必要だから作るのか、いずれであるかです。)

自らの設計作を「作品」と呼ぶこと。これが近代が建築家に許した最悪のことではないでしょうか。

栗田さんは、こう諭してくれた。

ものには「意志」があると感じます。そして、まだ生まれていないものにも「意志」を感じます。

例えば、デザインをしているときに「ロゴ」だったり、紙芝居だったり、オブジェだったり、建築だったりしますが、それらは生まれる前に何らかの意志を持ってそこら辺に漂っているような気がします。

その漂っている意志に忠実に「このように生まれたい」という意志をできるだけくみ取って実現してあげる手助けをする。意志を受け取って忠実に図面にする。そのようなイタコのようなことをするのがデザイナーとかアーティストといわれる人の仕事なんではないかと思っています。

※今回の写真: ル・コルビュジエの初期の設計(上)、中秋の満月(中)、オオオニバスの花(下)。中と下は、子どもたちが撮影。